僕に語る資格があるかどうかはわかりませんが、死について考えることがあります。
それは哲学を学んでいたということも理由としてあるでしょうし、意外と傷つきやすい性格をしているっていうのもあるかもしれません。
「生きる意味とは?」といった問いがありますが、未だに個人的な解ですら持ち合わせておらず、ただ生きていたから生きているばかりのものです。だから、生きていないこと、つまり死について考えてしまうのかもしれません。
また一方で、僕にとって社会、もしくは現実とは、厳しく残酷なようにうつります。
それに対して何も出来ていない自分がひどく醜く思えますし、何も出来ていない以上僕もその残酷さの片棒を担いでいるのにすぎないなと感じます。
無力感に押しつぶされそうになり、自分自身の価値を疑うこともあります。
そこから、将来に渡る絶望に考えが広がり、自己による自己の死という手段が頭を過ることも1度や2度ではないです。
ただ、こうとも考えます。死を体験して生きている人は、おそらくこの世界に存在しません。死は不可逆的な状態の変化です。後戻りができない結末ならば、今選ぶ必要のない手段ではないか、と。
遅かれ早かれ、せいぜい最大でも100年程度で大抵の人は死に至ります。僕が存在しうる時間は100年程度ですが、僕が存在していない時間は増加し続けますし、ほぼ無限でしょう。均して考えるとほぼ無であるのに、その100年程度の1%にも満たない要素なんか、塵芥に過ぎません。
まあ、僕が僕でいられる時間は短いのですから、その間は僕に振り回されながら、僕を構ってあげてもいいのではないかなんて思います。
加えて、自分が死んだ後の自分について考えるのは難しいです。その考える主体がいないのではないかと思うからです。ただ、知り合いが死んだ後の自分について考えるのは非常に容易で、ひどく落ち込んでいる自分が想像できます。
だから、僕と同じように頭の中に自殺がよぎってしまう人に対して、「いずれは死ぬのだから、まだいいじゃないか。」と言いたいのです。
欠落
磨耗していく生活に
ひとつひとつと感性は剥がれ
どんなに救いを願えども
その希望すら形にならない
生きるために失ったものは多く
空っぽのまま過ぎていく人生は
生きるに相応しいものなのか
死ぬのはいつだって出来る
それが僕らの合言葉
最後の時まで悪足掻きを
誰かの価値観に縛られぬよう
巡って行く季節に
弱音を吐くのも飽き足りた
自分自身の鎧が
軋みを立てる音を聴いた
生きるために失ったものは多く
それらすべて無くしたままの人生は
生きるに相応しいものなのか
死ぬのはいつだって出来る
それが僕らの免罪符
どこまで行こうと同じなら
傷ついた片足ずつ進めるか
死ぬのはいつだって出来る
死ぬのはいつだって出来る
死ぬのはいつだって出来る
死ぬのはいつだって出来る
死ぬのはいつだって出来る
それが僕らの合言葉
それでもまだ信じる人を
裏切らぬよう生きていく
【Original】欠落(ピアノ弾き語りver.) / Lupe
高森