「線路沿いの道を歩く」について

気怠い夏の空気が肌にまとわりつくような日だったと思います。

たしか休日で、都心に電車で出かけたあとの帰り路でした。

 

乗り慣れた電車の窓からぼんやりと風景を見ていると、なぜだか無性に外に出て歩いてみたくなったのでした。

 

どこに行くあてもなく、とりあえず歩いてみた線路沿いの道。

忙しく行き来する電車を横目に見ながらひとり歩いていると、なんだか自分だけ時間に取り残されたようで妙に感傷的な気分になりました。

一方で、自分だけズル休みをしてみんなとは違う時間を楽しんでいるようで、ウキウキするような気持ちもありました。

 

ウキウキしていたのは、線路沿いの風景がどこか自分の等身大の感性に刺さるものであったからかもしれません。

エネルギッシュで強烈な輪郭を持った夏の風景ではなく、どこか無常を感じさせるような儚げな風景にシンパシーを感じてしまうのは、自分の性格です。

 

世間一般では、人生を元気勇気100%で駆け抜けることが最大の幸福のように語られていて、夏はそのエッセンスを凝縮した「青春謳歌キャンペーン」が繰り広げられているように感じてしまいます。

それ自体は悪いことと思っていません。

 

青い空、白い雲、生命の息吹。そういったものすべてを100%の感性で吸収しながら、生を駆け抜けていくこと。

素晴らしいことです。できるならそうありたいと思う気持ちもあります。

ただ、やっぱり今の自分の感情に嘘がつけないのも確かで、澄み渡った青空よりも雲が薄く流れる曇りと晴れの中間みたいな空に惹かれるし、緑豊かな木々の生命力ではなく、道端で暑さに萎れそうになっている雑草に目が行ってしまうのです。

 

力強すぎる生命力は眩しすぎて、なんだかとても疲れてしまうときがあります。

 

だから生きづらい、などと自分の感傷を押し付けたくはありません。

でも、そう感じてしまうような人間にあった生き方があれば、なんて思っています。

 

結局そのときは、暑さに我慢できずひと駅分ほどを歩いただけで、いつもの電車で帰宅しました。

感傷的な気分も中途半端で長続きしないのは、つくづく自分に染み付いた性質だなあと思います。

 

だから、あのとき線路沿いを歩いたことが劇的な体験だった、というわけではありません。

だけど、そのときに感じとった夏の風景の印象はそれなりに強烈で、その印象を歌詞にしておこうと思ったのでした。